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第4回

【シリーズ】建築と環境 -1-
「イースター島の悲劇」

イースター島

イースター島は、あの有名なモアイ像で知られる南太平洋の孤島です。島の周囲は60kmほどで、北海道の利尻島とほぼ同じ大きさ。場所は、南米チリから西へ3,700km、仏領タヒチ島から東へ4,000kmに位置する、まさに絶海の孤島です。しかし、イースター島は意外にも暮らしやすい環境だったようで、島の近海には海産資源豊富な漁場もあり、この島にモアイ像の文明が栄えた当時は、島全体が森に覆われた資源豊かな土地であったことが、近年の調査からわかっています。

資源豊かな島が...

ところが17世紀、この豊かな島の文明は突如として滅亡してしまうのです。そして人のいなくなった島に、巨大なモアイ像だけが数多くとり残され、長く「世界の七不思議」として語られることになります。なぜ、イースター島の文明はとつぜん喪失してしまったのでしょうか。最近の研究で、それは「環境破壊」が原因であることがわかってきました。

写真や映像で見る現在のイースター島は、大きな木がほとんど生えていない荒涼とした草原に覆われています。しかし、この島に人が移り住んだと言われている5世紀頃は、豊かな森林に覆われていたようなのです。これは、島に残された種子や花粉の化石研究から明らかになっています。当時の島民は、土地を耕してイモ類を栽培し、鶏を飼い、魚を捕って豊かな暮らしをしていたと考えられています。人の住む最も近い島からでさえ2,000km(ちなみに東京→石垣島は約1,900km)も離れているため、侵略者に脅かされることもなく、平和な日々が何百年も続きました。

島民は有り余る時間と労働力を、もっぱら宗教的祭祀に充て、数多の古代文明がそうであったように、イースター島の人々もまた巨石文明を築き上げたと考えられています。こうして、みなさんがご存じのあのモアイ像が多数立ち上がったのです。こうした豊かで文化的な生活のなかで、島の人口もどんどん増えていきました。

とつぜんの文明崩壊

しかし、周囲が60kmしかない小さな島の生態系で維持できる人口には、限度があります。16世紀頃には、島の人口は七千人を超えるまでに膨らんだと考えられ、この頃からしばしば深刻な食料不足に見舞われたようです。そうなると必然的に、資源争奪のための部族間抗争が頻発するようになります。この時代の化石には、多くの武器とともに砕かれた人骨が多数見られるといいます。

17世紀になると、人口は一万人近くまで膨らみます。そして祭祀文化はさらに過熱し、高さ9メートル重さ90トンにもなる超巨大モアイ像が建造されるなど、いわば“モアイバブル”のまっただ中であったと考えられています。

大きなモアイ像を石切場から海岸のアフ(祭壇)まで運ぶには、たくさんのコロが必要となります。このため、森林から丸太を調達する必要があり、人々は次々に木を伐採し、またたくまにこの小さな島の森林資源は枯渇していくことになります。環境破壊が進み、資源が底をつくようになると、部族間抗争はさらに激化していきます。島の外に逃げだそうにも、この島は絶海の孤島であることに加え、すでに船を作るだけの木材さえ残っていなかったのでしょう。1774年に探検家で有名なクック船長がこの島に上陸したときの日誌には、島民はたったの六百人ほどで、彼らは洞窟に住み原始人のような暮らしをしていたと記されています。

豊かさの限界点

このグラフは、化石などから推定されるイースター島の人口と森林資源の比較です。

出典:安田喜憲 気候変動の文明史 NTT出版(2004年)を
基に筆者作成

人口の急激な増加と反比例して、この島の森林資源が急速に失われていったことがわかります。西暦900年頃(日本では平安時代)に、二つの線が交差しますが、私はここがこの島の豊かさの限界点であったと考えています。この限界点を超えてなお人口が増え続けたことにより、1600年頃(日本では江戸時代初期)に、とうとうこの島の文明は崩壊してしまうのです。これが、イースター島の悲劇といわれるものです。

こうして、何百年も続いたイースター島の巨石文明は、森林の無計画な伐採という環境破壊によって、終焉のときを迎えます。しかし21世紀のいま、このイースター島と同様の悲劇が繰り返されようとしています。はたして、それはどこでしょうか?

続きは、次回のコラムでご確認ください。

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